すっかり慣れ親しんでしまったノブに手をかけた。同じく慣れた動作でそれを回し、扉の中へ這入る。そしていつものように、まず出迎えてくれる探偵秘書と助手に挨拶をして、それから――――。
 という、お馴染みのパターンの行動を、取る筈だったのだが。


 ドアを開けて早々待っていたのは、お馴染とかお決まりとか、そういったモノを尽く蹴っ飛ばして歩くようなひとだった。
 変わった色のスーツさえ見事に着こなしてみせる遠い異国の人形のように整った麗しいかんばせが、彼女の顔を見たとたんうれしそうに崩れ、




「さぁ行くぞ女学生君!!」




 がしっといきなり手を攫まれて、いた。その後ろで唖然とする益田と和寅に挨拶を告げる暇もなく、「今日は」と云おうとした曖昧な口の形のまま、美由紀は驚いている間にずるずると引き摺られていったのである。
 一息遅れて響く美由紀の悲鳴と、妙に上機嫌な探偵の笑い声の残響が残る。


 いやぁ、止める間もない大胆な誘拐でしたね。と目撃者たる二人組は、後に語ったらしい。













   つめたい から すくいあげて      















「ちょ、ちょっと待って下さい探偵さん!!」




 誰もがうらやむ足の長さが今ばかりは厭わしい。

 小走りになりながら美由紀は切に思った。手を引かれているので、相手の速度にあわせざるを得ないのだ。ともかく始めは驚きのあまり探偵に連れられるまま此処まで付いてきてしまったが、ようやく事態の異常さが飲み込めてきたので、捕えられていた手を逆に引っ張ってその長すぎる足を止めてやった。

 振り返った彼は、心底不思議そうな顔で美由紀を見下ろす。


「どうしたんだ、女学生君」
「どうした、じゃありません!こっちこそ聞きたいです。一体どうしたんですか」
「何を言うんだい、どうももスモモもない。僕はいつでも僕だよ。僕以外に僕がいるなんて、それは神が二人いることになってしまうじゃないかっ!!それはいけない!」
「違います、誰も探偵さんが二人いるなんて思ってません!!」
「じゃあ何が聞きたいの?」
「‥‥どこへ、向かっているのですか」


 溜息まじりに至極当然の疑問を問いかけると、自分よりも一回り以上も年上の男の人は、ひどく無邪気に笑って、云った。


「おしるこを食いに行こう」
「‥‥‥‥‥‥は?」


 おしるこ、ですか。そう真っ白い白玉の這入ったやつ。


 にこにこと、やけに上機嫌に答えてくれた。和寅が電話で、今えらく不機嫌でして困ってるんです、と云っていたはずなのだが。その話と目の前の探偵の様子が一致しない。美由紀は内心不思議だった。


「今日は寒いから、絶好の汁粉日和だ!!千恵美君もそう思うだろう?」
「いや、確かにそうですけど‥‥お汁粉、おしるこですか‥‥‥」


 しかし機嫌が良い時の探偵は、見ていると面白いくらい活き活きとしている。簡単に云ってしまえば、楽しそう、なのだ。
 楽しむことに、全力。全力だから、楽しい。その所為で、今みたいに振り回されているのもまた事実だけれど、でも、こうして楽しそうな彼を見ているのも、―――楽しい。

 だから、いきなり連れ出されたこととか、探偵社の二人とまったく話せなかったこととか、文句はいくつもあったのだけれど。


「―――――私も、好きです」


 寒い日は温かいものが恋しいですから。
 それも楽しいかな、なんて。
 中禅寺あたりには、君は毒されているよ、と云われてしまいそうだ。


 あっさりと肯定され虚をつかれたためか、探偵はしばらく黙って美由紀を見下ろしていた。ぱちぱち、と瞬きをするたびに、長いまつ毛が揺れる。いっそ不思議なものでも見るように、きょとんとした表情で。
 なんだろうか、そんなに変なことを云ってしまったのか。


「あの、探偵、さん?」

 
 呼びかけると、道行く女性を魅了する微笑みが、淡く、浮かんだ。


「そう、好きなんだ」
「‥‥? はい、好きです。」


 意図がよくわからないものの、きちんと質問に答えるとふふふ、とご機嫌な笑みがこぼれる。
 よしそれならとっておきの店に連れて行ってあげよう!!とより一層元気な声で(元気と言うのを三十路を越えた男性に使うのも奇妙な気分だった)高らかに宣言すると、再び美由紀の手を引っ張って、ずんずん進み始めるのだった。

 ――――ただ、歩調はさっきよりもゆっくり、美由紀でもついていける速さで。

 それが少し、うれしかった。
 だから照れ隠しも兼ねて、美由紀は気になっていたことをもうひとつ尋ねてみる。


「ところで探偵さん」
「ん?なんだい」
「――――何時まで手をつないでいるんですか」
「僕がそうしたいからだっ」
「恥ずかしいんですけど‥‥」
「何を恥ずかしがることがあるというのだ、香奈枝君!!僕はかわいい君が迷子になったりあまつ誰とも知れない人間に拐されてしまわないように守っているんだ!!」


 そんな小さなこどもじゃないです。
 と抗議してみても、どこ吹く風の涼しい顔。




「いいかい、この手は神の手だ。是さえ有れば、君は迷わない。」




 予想はしていたが矢張り解放してくれる気はさらさらないらしい。諦めのため息をひとつついて、美由紀は神には従わざるを得ないのだ、ということを痛感した。



 



 
 ‥‥‥‥。
 とは、云え。
 いかに自称・神とはいえど、意に沿わぬことはやはりあったようだ。



「まったく暇人どもめ。少しは僕を見習って世界のためになることをしたらいいんだ」



 自分のことは棚に上げて、人どおりの多い道をまるで嫌いなものでも見るかのように睨んだ。
 今日は休日で、そして此処は交通の要所となる場所。自然人通りも交通量も増えるというもの。それでも気に喰わないものは気に喰わないのが榎木津だ。声をひそめるということをまるでしない彼は、その顔だちも手伝ってまさしく注目の的で、それに連れられている美由紀にも、当然その視線は突き刺さっている。


「探偵さんを見習って、って―――――例えばどんなことですか?」
「ふふ、何を云うんだい。僕が世界の中心だよ?だから存在が世界のためなんだ」


 そんな状況下で、溜息をつきながらそれでも手を振り払って逃げ出したり黙りこんだりしない美由紀も、自分で思っているよりもずっと強いとも言えるのだが。本人に自覚はない。

 しばし考え込むように人垣を眺めていた探偵は、その目線をそのまま美由紀にスライドさせ、不意に、覗き込むように美由紀の方へ顔を近づけた。 「女学生君」と呼ぶ声と、そのまなざしは、いつもより少しばかり真面目で、


「――――はぐれちゃ、駄目だよ」
「っ、あ」


 その真剣さとそれから寄せられた顔の近さに動揺して、美由紀が一歩後ろに足を引いた、そのタイミングをまるで狙っていたかのように。人波が押し寄せて、気付けば美由紀はそれにさらわれてしまった。



 つよく、引っ張っていた手が、離れる。

 あれだけしっかり握っていたのに、何かの冗談みたいに簡単に。




 けれど即座にぐいぐい人ごみに押されて息をするのもままならず、そんなことを考えている余裕はなくなってしまった。
 窒息しそうだなんて一瞬思って。




「たんてい、さん?」




 ようやく周りを見回せるようになった時には随分と流されていて。しまったはぐれた、と思った時にはすでに遅く、きょろきょろとあたりを見回してもあの長身は見当たらない。
 急に自由になった手が、さみしい。
 先ほどまであった温かさがない、それだけで、余計に冷たく、感じるのだ。急激に、不安になる。


「探偵さん探偵さん、た‥‥‥――――っ、榎木津さんっ!!」


 まるでこどもだ、と思った。
 先刻自分で小さな子供じゃないと、云ったばかりなのに。



 すぅ、と。胸の中が冷えていく。てのひらの、温度と同じに。
 この感覚を、美由紀はよく知っていた。それは突然訪れる、


 ―――――なきたい、という言葉にならない衝動。


 例えば、制服姿の二人組をみたとき。例えば、一緒に読んだ本を見かけたとき。例えば、よく口ずさんでいたメロディが聞こえたとき。例えば、好きだと言っていたお菓子を食べたとき。




 それから、
 独りになってしまった、時。どうしようもなく、さみしくなった時。




 それは瞬間的に訪れて、すべてを攫って飲み込んでいく。津波にも似た衝動。押し寄せて、飲み込んで、深い海まで引きずり込む。後には何も残らない。全部全部、攫っていく。ただ窒息したような苦しみ、だけ。ぽっかりと、それは空虚な喪失感。



 (――――さよこ)



 友人の姿を思い浮かべた。
 少しだけ薄れた記憶が、悲しい。





 だめだ、また。
 飲み込まれる。
 目を閉じて、押し寄せる絶望に身を任せようとすると。








 ぐい、と。



 引きとどめるものがあった。



 みゆきくん、



 いつになく焦りの見える声で名前を呼ばれた、気がする。細くて長い指が、確りと美由紀の手を捕まえて、強く、手をひいた。先には、先刻よりも幾分か真剣な表情。
 目が合う。薄茶の、大きな瞳。視線が、交差。


「はぐれちゃ駄目だと、云ったのに」


 少しだけ真剣な顔の探偵は、捕まえた美由紀の手を引っ張って歩きだした。 半ば引っ張られるような形で、美由紀も歩き出す。
 半歩先を歩く人に目線を向けるものの、彼の人は此方を見てはいない。顔は見えなかった。でも、その後ろ姿から、こえがきこえるきがした。




 僕が、ここにいるじゃないか
 と。




 そんなの気の所為に決まっている。だってこの人は記憶が読めるだけで、その心情がわかるわけでは、決してないのだから。それに、そんなこまやかな機微を察するひとでも、ない。




 けれどこの大きな手は、確かに自分を引き留めてくれていた。痛いくらいに、強く。
 だから、当人がどんなつもりかなんてどうでもいいか、と。

 泣き出しそうだった気持ちをぶち壊してくれたその手を、そっと、握り返した。





 この手があれば、迷子にならない。
 ―――――あたたかい。
 ゆるやかに浮かぶ微笑みは、きっとこのあたたかさのおかげ。












(ああやっぱり、)














「寒い日は、あたたかいものが恋しいですね、探偵さん」








































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目指せえの→みゆ。そして玉砕★
一応例の事件のちょっとだけ後な感じ。書きたかったのはさよこのことを引き摺る美由紀ちゃんだったので、まぁいいかな、とか。
美由紀ちゃんは賢くて強くて良い子ですが、でもやっぱり普通の女の子なんだ、みたいな。


  20080526