それは、神に愛された健やかなる日々






 たりない、と探偵はある日突然云った。






 それがあまりにも唐突だったので、紅茶を飲んでいた美由紀は手をとめてきょとんと首をひねる。助けを求めるように彼の奇行には概ね慣れているはずの探偵社のふたりを見てみるも、どちらも首をひねるばかりであった。  
 彼等にも分からないらしい。ならば付き合いの浅い美由紀がわかるわけもない。

「‥‥味が薄かったですか?」

 もしくは甘味が足りなかっただろうか。

 どうせひとりで食べてもつまらないしと、好意のつもりで実習で作ったマーブルケーキを持ってきたが、口に合わなかったと云うのならば持参した美由紀の責任だ。
 困惑しながらも、きちんと見据えてそう問いかけた。
 持ち直しが早く回転の速い美由紀は、ずっと年上である助手と秘書よりも落ち着いている。冷静だ。

「そんなことはあるわけがないっ。君が作ったモノがまずいなんてことがあるもんか」

 何故だか憤慨されてしまった。
 其れが嘘ではないことは(その人柄からも明瞭ではあるが)手を止めずばくばくとケーキを口に運ぶ様子からも明らかである。ならば、何だというのだ。生憎美由紀は彼のように特異な能力があるわけでもなく、拝み屋のように心情を探る術に長けているわけではない。所詮しがない「女学生」だ。

「それじゃあ、一体なにが足りないというんですか榎木津さん」

 榎木津にそれ以上説明をする気がないのを悟り、益田はそう助け船を出してくれた。
 ‥‥どこか、面白半分な気配があるのも、否めないと思うのだが。

「うるさい馬鹿オロカ。たりないといったらたりないのだ     花代君、君は決定的にたりない」
「わたし、ですか?」

 足りないのはケーキではなく自分の何かだったらしい。

      余談ではあるが、花代君とは美由紀のことである。
 美由紀が榎木津と知り合ってから数えてみると意外に長い月日が経っているはずなのに、一向に名前を覚える気配はない。記号であって呼称ではない「女学生」で呼ばれることもしばしばある。
 もはや其れについては既に諦めの境地であった。


 ともかく今肝心なのは榎木津のいうところの美由紀に「足りない」ものだ。

 しかし、足りないものと言われても思い当たる節が多すぎて、皆目見当などつくはずもない。榎木津の云うことが理解できないのはいつものことだが、今回も矢張りその口であるらしい。

 とりあえず考えてはみるものの、答えの出る様子のない美由紀へ、色素の薄い瞳が向けられる。

     その、馴れ馴れしい奴はだれだ」

 すぅ、と眇められた茶色の瞳が美由紀の頭少し上を捕らえている。
 記憶を、見ているらしい。

「その、スーツ姿の若い男だ。それは、だれだ?」

 スーツ姿、若い男、馴れ馴れしい‥‥。

 三つの単語をつなぎ合わせて、漸く榎木津が指し示すのがどの人物のことか、理解できた。

「あぁ、昼間のサラリーマンの」

 道を尋ねられたんです。と告げると、 ぴく、と端正な眉が動いた。
 普段が奇抜な態度で適当な表情でありともすれば見落としがちだが、榎木津はひどく整った顔をしている。整った顔の無表情、と言うのはいささか恐ろしい。整っているだけ、余計に。

 その無表情から伝わってくるのは、     彼にしては珍しい、怒気、である。

 どうしてわたしはこのひとにおこられているのだろう、と至極真っ当な疑問が胸をよぎったが、とても聞ける雰囲気ではない。逃げる余地もない。
 その雲行きのあやしさを察したのか和寅に至ってはすでに台所へ避難済みのようだ。用意のいいことである。

 なんて余計なことまで考えていたら、
 どん、と机をたたく音がして、反射的に、びくりとした。

「そうだそいつだ!!!‥‥なんだ手まで握られて!!いいか、由紀菜君。そう易々と他人に触られるんじゃない!やっぱり君には足りない、足りなさすぎる!!」
「え、」

 思わず、目を瞬かせた。まじまじと、そのかんばせを見つめる。
 この流れで足りない、と言われるのならば、淑女としての慎み云々という話‥‥となるのが一般的だ。しかし、その一般の枠に収まってくれないのが、彼である。


「僕の許可を取りなさい!!」


 ‥‥は?
 目が点になった気がした。助けを益田に求めても、やはり首を傾げられる。仕方がないのでおずおずと聞いてみる。おずおずと。

「あの、それは何に、ですか?」
「神のものに触れるのに、神の許可がいるのは当然のことだっ」

 神、それは榎木津がよく口にする大胆にして不適、傲岸な自称のこと。
      では、神のもの、とは。
 戸惑っているせいか素早く回ってくれない思考で懸命に考えてみるが、それが追い付く前に、決定打が神の口から飛び出した。









「君は神のものであるという自覚が足りないっ!!」








 しん、と一瞬にして事務所に静寂が訪れた。
 さしもの益田も唖然としている。美由紀に至っては、あまりの言葉に寧ろ反応の取り方もわからない。何度かまたたきを繰り返して、偉そうに踏ん反り返る榎木津を眺めていた。

「‥‥いつから私は探偵さんのものになったんでしょうか」

 ようやく口をついて出たのは至極一般的な反論であった。しかし、そんな「一般」というのは榎木津礼二郎という「非・一般」にかかれば塵屑同然。案の定悪びれる気配もない。

「愚問だな、僕がそうと決めたときからだ!!」
「私はものじゃないんですけどー‥‥」

 小さな主張もわはははっ、という哄笑にのみこまれて消えていった。ついでに抵抗する気力も一緒に飲み込まれていく。はっきり言ってもうどうでもいいんじゃないかという気分になりつつあった。

「いいの?美由紀ちゃん。あのオジサンあんなこと言ってるけど」
「言っても、どうせ無駄ですし。それにたぶん犬とか猫に対するのと、同じですよ」

 益田がそっと、その「オジサン」に聞こえないように耳打ちしてきた。どうやら心配してくれているらしいが、美由紀は、にっこり、と微笑んで、自信を持ってそれに答えることができる。
 内緒ですよ、
 と前置きをして、益田の耳打ちに返すようにおさえた声で、‥‥目の前の「オジサン」とやらには聞こえないように。




「神様のことは信用してるんです、私」




 だからちょっとだけ、ほんの、ちょっとだけ。うれしいかもしれませんね、

 晴れ晴れとした笑顔は、一瞬、ひどく大人びて見えた、ものだから。
 益田は我にかえって「ああ女の子って‥‥」と妙に年寄りくさいことを言いかけて、しかし次の瞬間には榎木津によって美由紀から引き離されていた。
 つかまれた襟首が締まってぐえ、と苦しそうだ。

 それを見て「おお、お前はカマじゃなくてガマだったのか!!ははははは!!」などとまた榎木津が騒ぐ。つられてくすくすと笑いだすと、笑ってないで助けて美由紀ちゃん、という悲痛で悲哀な悲鳴が、ひびいた。

















 れは、

 にあいされた健やかなる日々。    























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 みゆきちゃんのほうが、精神年齢は上だと信じて疑わない。
 えのさんの魅力は、あのこどもっぽさと、そこにある大人な部分だと思ってます。
 ・・・・・でもこどもにしか、なってくれない(泣